みとり塾

第3回

 全3回のシリーズで構成された「みとり塾」。 最終回となる第3回は、2013年2月23日(土)に藤が丘地区センターにて行い5名の方が参加され行なわれました。
今回のテーマは、「みとりと医療」。 講師は、当法人の理事でもあり医療ジャーナリストの倉西隆男が務め、医療現場と患者側との「死」に対する考え方の違いや、これからの終末期医療などについて、データやエピソードを交えながら、目に見える形で説明を行ないました。
なかでも興味深かったのは、医療技術がめざましく発展することによって、「死」を受け止める倫理観が複雑化してしまったということです。
例として挙げられていたのが、経鼻胃管や胃ろうなどの「人工栄養」は、医学が未発達であった時代においては、医療現場も患者側も、食べられない(=生命の危機)という捉え方でした。しかし、医療技術の進歩に伴い、経口摂取できなくても栄養補給が可能になると、医療現場は「生かすこと」の延命治療を最優先に考え、患者や家族は、「患者自身の尊厳を保つために死を選ぶ」のか、「人間らしさを失ってでも生命を維持する」のかという、困難な選択を迫られることになってしまったのです。 このことを最も顕著に表していることが、講義終了後の意見交換のときにありました。ある参加者の方が、「家族が特養に入所するときの確認事項において、『自然死を望みますか』という問いに対して『はい』、『胃ろうを望みますか』という問いに対しても『はい』と答えてしまう…」とおっしゃっていおりました。
誰しも、自然の摂理に身を委ね、ありのままの自分で死ねることを望んではいても、生き続ける術があるならば生きたいと思うのは当然のことであります。ましてその選択が、自分以外の人の生命のこととなると、簡単に決めることなど不可能であることが、改めて浮き彫りにされました。
よって、いざというときのためにも、在宅医療など地域ケアを活用した「みとりの場所の選定」と、どのような最期を遂げるかという「みとりの方法」を、家族とともに事前に話し合い、考えておくことがいかに大切かを認識することができたと思います。
倉西は、講義の終わりに「医療は『みとり』の手助けをするものであり、かつ、生きることを支えるべきである。」と述べました。そして「みとり」で最も重要となるのは、臨終の瞬間なのではなく、それまでのプロセスであるということであると結び、「みとり塾」を終えました。 (伊庭 勇一)

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